2011年7月28日木曜日

ぶらり散歩110728

相模大橋からあゆみ橋。ブロックノイズがかかってるみたい。
相模大橋の厚木側から海老名側。
なんか、強大な城壁と門が作られそうな雰囲気。
そして「厚木市民の海老名立ち入り禁止!」ガシャーン!って
門を閉められる・・・そんな事を妄想済み。
 
246の新相模大橋付近の工事中の建物。
どこぞの物流センターだとか。
市民には別に嬉しい建物じゃねーけど、
何も無くて寂れるよりはいいよね。
 
246を渡るためのトンネル。
小さすぎて、大人は頭をさげて通るしかなく、灯りもない。
夜に通ったら異世界に行ってしまいそう。
 

2011年7月24日日曜日

2011年度、春季、第2種、電気工事士試験

お家の電灯とかをとっかえるのに、あったらいいかなと行って来た。
自身度75%
重大欠陥はたぶんなく、被覆のキズとかで軽欠陥とられるかな?くらい。

それでも時間的には余裕なし。
40分って、実際やってみると短いですなぁ。

プー太郎時代に受けた職業訓練では、電工ナイフで皮むきとかしてたが、
そんなんやってたら絶ぇぇぇぇっ対に終わらん。
普段から剥いてるプロじゃあるめーしな。
ホーザンのワイヤストリッパー様様。
これがなかったら、組み立て終わる気がしない。
まぁ、ケチらず7点セットを買っていって正解だった感じ。

でも、今回は「VVF2.0-3C」もでてきて、
件のワイヤストリッパでも対応しておらず、
ナイフで剥く必要もあった。
ナイフで作業出来なくとも良いって訳でないのがニクイ。

2011年7月17日日曜日

【読書メモ】『本棚の歴史』ヘンリー・ペトロスキー ★★★★

『本の歴史』ではなくて『本棚の歴史』なのがポイント。
タイトルを見ただけでビビッっと購入。

言われてみれば当たり前なのだけれど、昔は本ってかなり貴重だったんですよね。
写本だと、数ヶ月~数年をかけて1冊が作られるわけで、
当然、今のような万引きされまくりな本棚じゃないですよね。

さらには、人工照明の無い時代には、採光は大きな問題だった。
本棚をどう設置するかで、建物の設計も変わる。
そんな感じで、本棚の歴史は本の歴史であり、
さらには図書館などの建物の歴史でもある。

著者のヘンリー ペトロスキーさんは、
『橋はなぜ落ちたのか』等を書いている、土木工学の専門家であり、
建物の解説はさすがである。詳しく、分かり易い。
そのおかげで、本棚が置いてあった環境が想像でき、
その本棚の前に立った時に見えるであろう景色をも
思い浮かべることが出来る。

また、失敗学の大家で、歴史に学ぶことを提唱している人なので、
歴史的経過も分かり易く、自然に理解できる。
様々な本棚が紹介されるが、
それらは、その時代当時の問題解決のために、
必然的に、なるべくしてその形になっている事がわかる。

また、「部屋の角の、両方の壁に本棚を設置する際にどうするか?」など、
今でも身近な問題な話もある。
昔の人も同じような事で悩んでいたと思うと、親近感を覚える。

今の形で、当たり前に存在している本棚だけれど、
いろいろと歴史を刻んできてるんだなぁと改めて思う。
また、それは人類の歴史でもあり、
本好きなら、本棚の歴史を通して人類も好きになれる。
そんな一冊。

2011年7月11日月曜日

【読書メモ】『チーズとうじ虫』カルロ・ギンズブルグ ★★★★

真面目な歴史書。
サブタイトルの「16世紀の一粉挽屋の世界像」のが分かりやすい。
ただ、当時の一般的な粉挽屋の話ではない。
異端審問にかけられ、火あぶりにされた男の話である。

彼はこう説く。
「私が考え信じているところによると、すべてのものはカオスでした。
そして、このかさのある物質は
ちょうど牛乳のなかでチーズができるように少しずつ塊りになっていき、
そこでうじ虫があらわれ、それらは天使たちになっていった。
そして、至上の聖なるお方は、それが神と天使であることを望まれたのです。
これらの天使たちのうちには、
同時にこの塊りからつくられた神も存在していました。」


この、彼の思想が重要なのは、
キチガイが啓示を受けてのたまっているのではないという事。

彼は「牛乳がチーズになり、そこにうじ虫がわいて来る」という実体験を
世界の理として認識し、彼なりの理屈で考えた末に、この思想に至った。
つまり、「無から神様が全てを創造しました」という非現実的な教会の教えを、
現実社会で生きている農民が拒否したのだ。

本では彼がこの結論に至る、幾つかの要因が上げられている。
教会が売り物を押し付け、富を集めていた時代性や、
キリスト教が入ってくる前には、農民には土着の信仰があった等々。
幾つかの要因の中で、重要視されるのが本の存在である。
(この本の表紙も、二宮金次郎よろしく本を読むメノッキオだ)

その時代は、グーテンベルクの活版印刷の発明により、爆発的に印刷物が増え、
昔のように、人の手によって写された貴重な本が、修道院に厳重に管理される、
そういう時代ではなくなっていた。
そして、彼は本に触れてしまった。読んでしまった。
さらに、考えてしまった。話してしまった。
その結果、火刑に処されてしまった。

これは、現代にも通じる話で、使えるのではと考える。
現在は、容易に様々な情報に触れる事が出来、また発信する事も出来る。
発信の危険については、バカ発見器と言われるツイッターの効果もあり、
多くの人が認識しているだろう。
しかし、それらはバカがバカする危険性という認識だ。
聡明で責任感もある人が、情報をインプットする事の危険性は、語られない。

その理由の一つとして自分が考えるのが、
「話をするために現代の例を挙げると、
“知ってはいけない情報そのもの”についても語る事になる。」事。
しかし、このメノッキオの話ならその危険は回避できる。
この話を寓話として、情報の危険性、考える危険性、
さらに情報発信の危険性について
セットで伝える事ができるんじゃないかな?と思ってみた。
・・・知ってはいけない情報がある事自体がタブーなので難しいかな。

閑話休題
この本には、他にもいろいろ教訓めいた内容がある。
歴史とは当時の支配者が書き記すものであり、
それ以外は異端として一緒くたに歴史の闇に葬りさられる。とか、
人は、本を読んでも都合の良い解釈をしてしまう。とか。
ただの歴史書とするには惜しい本だと思う。