真面目な歴史書。
サブタイトルの「16世紀の一粉挽屋の世界像」のが分かりやすい。
ただ、当時の一般的な粉挽屋の話ではない。
異端審問にかけられ、火あぶりにされた男の話である。
彼はこう説く。
「私が考え信じているところによると、すべてのものはカオスでした。
そして、このかさのある物質は
ちょうど牛乳のなかでチーズができるように少しずつ塊りになっていき、
そこでうじ虫があらわれ、それらは天使たちになっていった。
そして、至上の聖なるお方は、それが神と天使であることを望まれたのです。
これらの天使たちのうちには、
同時にこの塊りからつくられた神も存在していました。」
この、彼の思想が重要なのは、
キチガイが啓示を受けてのたまっているのではないという事。
彼は「牛乳がチーズになり、そこにうじ虫がわいて来る」という実体験を
世界の理として認識し、彼なりの理屈で考えた末に、この思想に至った。
つまり、「無から神様が全てを創造しました」という非現実的な教会の教えを、
現実社会で生きている農民が拒否したのだ。
本では彼がこの結論に至る、幾つかの要因が上げられている。
教会が売り物を押し付け、富を集めていた時代性や、
キリスト教が入ってくる前には、農民には土着の信仰があった等々。
幾つかの要因の中で、重要視されるのが本の存在である。
(この本の表紙も、二宮金次郎よろしく本を読むメノッキオだ)
その時代は、グーテンベルクの活版印刷の発明により、爆発的に印刷物が増え、
昔のように、人の手によって写された貴重な本が、修道院に厳重に管理される、
そういう時代ではなくなっていた。
そして、彼は本に触れてしまった。読んでしまった。
さらに、考えてしまった。話してしまった。
その結果、火刑に処されてしまった。
これは、現代にも通じる話で、使えるのではと考える。
現在は、容易に様々な情報に触れる事が出来、また発信する事も出来る。
発信の危険については、バカ発見器と言われるツイッターの効果もあり、
多くの人が認識しているだろう。
しかし、それらはバカがバカする危険性という認識だ。
聡明で責任感もある人が、情報をインプットする事の危険性は、語られない。
その理由の一つとして自分が考えるのが、
「話をするために現代の例を挙げると、
“知ってはいけない情報そのもの”についても語る事になる。」事。
しかし、このメノッキオの話ならその危険は回避できる。
この話を寓話として、情報の危険性、考える危険性、
さらに情報発信の危険性について
セットで伝える事ができるんじゃないかな?と思ってみた。
・・・知ってはいけない情報がある事自体がタブーなので難しいかな。
閑話休題
この本には、他にもいろいろ教訓めいた内容がある。
歴史とは当時の支配者が書き記すものであり、
それ以外は異端として一緒くたに歴史の闇に葬りさられる。とか、
人は、本を読んでも都合の良い解釈をしてしまう。とか。
ただの歴史書とするには惜しい本だと思う。