やっぱ人に嫌われているよりは好かれている方が良いわけで、どうにかしたい。
嫌われる原因がわかれば、どうにかなるのではないか───ってね。
御多分にもれず自分も考えてみたが、
オタクがオタクでない人(以下、一般人)に嫌われるのは当然という結論に至った。
(ノ∀`)アチャー
実は、オタクは存在するだけで一般人を攻撃している。
そもそもオタクってなんだろう
おたく(オタク、ヲタク)とは、1970年代[1]に日本で誕生したサブカルチャーのファンの総称。
独特の行動様式、文化を持つとされる。
Wikidataによるとこんな感じ。 一般人的にはこれで良いと思う。
でも、オタクとしては、どうしてサブカルチャーなのか、
どうして独特の行動様式、文化とされてしまうのか、
そこに得心がいかぬのではないか。
そもそも、なぜ分類されてしまうのか。
それは、一般人にとって不快だからだろう。
人間は、常に論理的思考をするように思われるがそうでもない。
脳の構造からいって、動物脳で発生した感情に、人間脳で理由付けとなる。
例えるなら、論理回路により数ステートで発生する感情に、
日本語等のインタプリタで「すっぱいブドウの理論」を追加する構造。
とある文化的一団が、一般人にとっては不快だったとする。
しかし、動物虐待や迷惑バイクみたいに非難する正当な理由が付けにくい。
そこで、自分たちとは別の人間なんだと納得する事で、
とりあえずの精神の安定を得る。
そうして生まれてきたのがオタクという分類である。
一般人に不快感を抱かせるのがオタクなのだ。
最近は、一つの分野に深い知識をもつ人を「オタク」と呼ぶ事もあり、
これについては賛同を得れないかもしれない。
だがしかし、それは本来の意味の「オタク」ではない。
例えば「オタク趣味」としたらどうだろう。
一般人が嫌悪感を抱きそうな趣味しか出てこないのではないだろうか。
私は、こちらが本来の意味の「オタク」であろうと考える。
では、オタクの抱かせる不快感とはなんなのか
例えば、熱心な一神教の人達の前で、「私は無神論者です」と言ったらどうだろう。彼らが不快に感じる事は容易に想像できるだろう。
自分の事を言っているだけではあるが、彼らの価値観を攻撃している。
オタクの存在とは、一般人にとってこの無神論者みたいなもの。
一般人にとってオタクは、
一般の価値観から外れた価値観を信じる「異端者」であり、
存在を認めてしまうと、自らの価値観が傷ついてしまう存在なのだ。
つまり
オタクは存在するだけで一般人を攻撃している。
オタクと一般人の根本的な価値観の違い
でも、一般人カテゴリー内でも価値観の違いはあるわけで、オタクの価値観だけがなぜこうも否定されるのか。
趣味だって多種多様に存在するのに。
オタクとしては当然の疑問だが、
オタクと一般人の間には、一趣味にとどまらない価値観の違いがあるのだ。
それは顕示的消費に対する価値観である。
一般人の消費活動には、その実質的な効果や、楽しさを享受する以外に、
他者との共感、さらには他者に対する顕示的効果も期待している。
車を買ったり、旅行に行ったり、美味しいものを食べたりも、
ただ自分が満足するだけではなく、
他の人に「いいね」と評価されるためでもあるのだ。
一般人どうしでは趣味の違いはあっても、顕示的消費を行うという事は共通するため、
顕示的消費自体を否定する事は行われない。
ところが、オタクの消費は自分が満足するためだけに行われる。
人からの評価はさておき、ひたすら自分の趣味趣向に従うのを良しとする。
顕示的消費に対しては消極的どころか、オタクによっては否定的ですらある。
その結果、一般人の消費活動全般に価値を見出さず、
思わぬ全面攻撃となってしまうのだ。
嫌われないオタクになるために
オタク趣味をもつだけで不快感を抱かれるわけだが、直接付き合う人達の高感度を上げる事は出来る。
彼らの顕示的消費を肯定してあげるのだ。
彼らの顕示的消費を「いいね」と肯定してあげよう。
さらに、彼らに合わせて自らも顕示的消費をし、
同じ価値観を持っているアッピルをするのも効果的だ。
服装に気を付ける事は、直接の見た目の不快感を解消する以外に、
顕示的消費に肯定的であるアッピルにもなるため一石二鳥!
とにもかくにも、文化的差異を認識し、
彼らの価値観を傷つけないようにしよう。
でもまぁ、そもそもオタクが顕示的消費に価値を見出せないのは
他人にそんなに興味がないからだったりするので、
最終的に面倒くさくなって「嫌われてもいいや」ってなるんだけどな。
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